果無し事

ネットの海に流し雛

ヒューマンストレージ

20XX年、世界は核の炎には包まれず、順調に技術的な進歩を遂げて来た。それとともに人口は100億人を超え、その誰もがそれなりに幸福に、それなりのことを考えてそれなりに生きていた。
時代の変化で変わったものの中でも、喫緊の問題となっているのが情報量だった。100億人の人間たちは皆それなりに考えて生きているため、それぞれが情報を持ちたがった。家族の写真、日記、お気に入りの映画、個人制作のイラスト…。これらだけでも相当な情報量になった。そうでなくとも、情報化されて来た以前からの情報も全てストレージに保存するというプロジェクトが発足していた。情報化社会は進み、新たに生成される情報も国や企業レベルのものだけでも相当な量だった。世界中のこれまでの歴史が紡いできたありとあらゆる情報、そしてこれから綴られる記録を格納する必要があった。
しかし、保存できる情報量は圧倒的に不足していた。世界中のストレージを集めてもこれまでの、そしてこれからの情報を保存し続けることは無理かと思われた。しかしながら人類はこれまで幾多の困難をその知恵で乗り越えて来たのである。この問題にも取り組む研究チームが発足され、そしてその研究はある解決策を編み出した。
それは「ヒューマンストレージ」と呼ばれた。その名の通り、人間を使ったストレージである。そう聞くとそのストレージにされた人は脳の機能を失ってほとんど生きていないような光景が想像され、なんとも恐ろしい技術のような気がするけれどもそうではない。ストレージにされている人々はほとんどそれを意識することなく生きていくことができる。
それは無接点通信装置のアイデアを応用したものだった。無接点通信で人間の脳に電気信号を送り記憶させ、またその応答を受信することで人の脳をストレージ化することに成功したのだった。ピアツーピアと似た方式で多くの人間に情報を広げ、死亡などで情報が失われることを防いだ。
人はその脳の全てを常に使うことができているわけではない。脳の使っていない領域を、少し間借りさせて貰うのである。だからストレージにされた人は自分がそういった記憶をしている自覚すらない。何しろ人間は100億人もいるので、一人一人の記憶域は大きくなくとも膨大なストレージとなり得るのである。そして幸運なことに、1人の人間が保有できる情報量は意外と多いということもわかった。もはや無尽蔵のストレージと言えた。
もちろん最初は倫理的問題でかなり難航した。先進国のほとんどはその技術の安全性に懐疑的だったし、何か問題が起きたときには多くの国民を危険に晒してしまうため国が責任を追及される恐れがあった。そういった問題をあまり気にせずに利益を求めた国が先陣を切って国家プロジェクトとして進めた。そのおかげで懸念していた「倫理的問題」は皆無であることが実証され(無論、これは運が良かったケースである)、今では先進国のほぼ全てがこのシステムを国中に張り巡らせている。全ての道路、新しく建造されたすべての建物にヒューマンストレージの送受信装置が設置された。今や人類は情報そのものとなったのだった。