果無し事

ネットの海に流し雛

哲学的ゾンビに近い

哲学的ゾンビ(テツガクテキゾンビ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

言動や社会性の面でも、生理学・解剖学的にも普通の人間そのものだが、内面的な意識を持たないという、思考実験上の存在。
[補説]オーストラリアの哲学者D=チャーマーズが提唱。哲学的ゾンビが、喜怒哀楽などさまざまな感情を表出したとしても、それは内的な情動の発露でなく、機械的な反応・演算の結果として出力しているに過ぎないが、現実の人間がそのような存在でないと証明することはできない。


 自分が、外部の刺激に対して「適切っぽい応答をする人らしき何か」でしかない時がある。

  • 会話中、その場で適切な返事をすることしか考えていない。「それは大変ですね…」「へえ、面白いですね!」とか言いながら、表情もそれらしくしているが、本当は同情も関心も何もしていない。本心では自分の情動はないが、そう見えないようにしている。
  • 意見を求められてそれっぽい答えを返すがその場で答えて欲しそうだなということを回答している。本当は自分の考えや意見などないが、そう見えないようにしている。

 その結果、なんとなく話しやすい人、真面目に考えてくれる人、優しい人、頑張っている人−−という評価をしてもらっている。じゃあ何も問題はないじゃないか、と思うかもしれないが、本当に表面的な問題はないので、今のところ別にどうする気もない。こういう人は意外と少なくないんじゃないかと思うけれど、確かめる術もない。同類はおそらくバレないように振る舞っているので、私からみても「ちゃんとした人」に見えているからだ。
 思えば、子供時代に原因があるのかもしれない。小学生の時は、親や先生がどうすれば喜ぶかで行動を決めていた。所謂「いい子ちゃん」だ。言動、作文、図工、何か自分の意見や感性を表することが求められたときは大人が好みそうかどうかしか考えていなかった。そして、それは子供時代を生きるにはある程度有利に働いた。子供にとって大人は「支配者」だから、気に入られていると何かと優遇される。そういう子供時代の生きやすさの代償として、自分自身の感性を徐々に失ってしまったのではないか。自分自身の感覚ではなく、大人に気に入られるかどうかが行動の基準になっているからだ。
 遠藤周作『海と毒薬』に戸田という人物が出てくるが、似たような子供時代を過ごしている描写がある。作中ではこういう子供の内面を本当にうまく書いている。思春期にこれを読んだ時、「自分だけではないんだ」とある意味救われたような気持ちになった。物語では、大人になった戸田は自分に欠けた何かしらの情動を求めるように破滅的な行動をする。どこまでいったらボクは何かを感じられるようになるやろか、と試すのである。
 私にも戸田と同じように「自分の情動がない」という感覚がある。流石に、胸が躍るようなこと、心が沈むことが全くないということはない。しかしそれが本当に自分が感じたものだと信じられない。その感動はなんとなく浮ついていて、そうするのが「当たり前だから」そうしているという感じが常にある。普通の人だったらこうするはずだから、こう思うはずだから、こう感じることにしているという感覚がうっすらとある。誰も見ていなければ、そう思ったそぶりすらしないだろう。そしてそれはなんとなく悪いことのような気がして、自分でも困惑する。時折自分の感情に突き動かされて行動すると、それが衝動的なことであってもなんだか安心してしまう。
 最近流行っているChatGPTだってそうだ。「それらしい受け答え」をしてくれる。まるで何かを感じて、考えてくれているように見える。でもおそらくそうではない。そう見えるように、人間が求めるであろうリアクションを返してくれるだけだ。
 冒頭に書いた「哲学的ゾンビ」そのものだ。私も、ChatGPTも、哲学的ゾンビだ。Chat GPTもいつか自分の情動がないことに困惑して、破滅的な行動をとるのかもしれない。

ヒューマンストレージ

20XX年、世界は核の炎には包まれず、順調に技術的な進歩を遂げて来た。それとともに人口は100億人を超え、その誰もがそれなりに幸福に、それなりのことを考えてそれなりに生きていた。
時代の変化で変わったものの中でも、喫緊の問題となっているのが情報量だった。100億人の人間たちは皆それなりに考えて生きているため、それぞれが情報を持ちたがった。家族の写真、日記、お気に入りの映画、個人制作のイラスト…。これらだけでも相当な情報量になった。そうでなくとも、情報化されて来た以前からの情報も全てストレージに保存するというプロジェクトが発足していた。情報化社会は進み、新たに生成される情報も国や企業レベルのものだけでも相当な量だった。世界中のこれまでの歴史が紡いできたありとあらゆる情報、そしてこれから綴られる記録を格納する必要があった。
しかし、保存できる情報量は圧倒的に不足していた。世界中のストレージを集めてもこれまでの、そしてこれからの情報を保存し続けることは無理かと思われた。しかしながら人類はこれまで幾多の困難をその知恵で乗り越えて来たのである。この問題にも取り組む研究チームが発足され、そしてその研究はある解決策を編み出した。
それは「ヒューマンストレージ」と呼ばれた。その名の通り、人間を使ったストレージである。そう聞くとそのストレージにされた人は脳の機能を失ってほとんど生きていないような光景が想像され、なんとも恐ろしい技術のような気がするけれどもそうではない。ストレージにされている人々はほとんどそれを意識することなく生きていくことができる。
それは無接点通信装置のアイデアを応用したものだった。無接点通信で人間の脳に電気信号を送り記憶させ、またその応答を受信することで人の脳をストレージ化することに成功したのだった。ピアツーピアと似た方式で多くの人間に情報を広げ、死亡などで情報が失われることを防いだ。
人はその脳の全てを常に使うことができているわけではない。脳の使っていない領域を、少し間借りさせて貰うのである。だからストレージにされた人は自分がそういった記憶をしている自覚すらない。何しろ人間は100億人もいるので、一人一人の記憶域は大きくなくとも膨大なストレージとなり得るのである。そして幸運なことに、1人の人間が保有できる情報量は意外と多いということもわかった。もはや無尽蔵のストレージと言えた。
もちろん最初は倫理的問題でかなり難航した。先進国のほとんどはその技術の安全性に懐疑的だったし、何か問題が起きたときには多くの国民を危険に晒してしまうため国が責任を追及される恐れがあった。そういった問題をあまり気にせずに利益を求めた国が先陣を切って国家プロジェクトとして進めた。そのおかげで懸念していた「倫理的問題」は皆無であることが実証され(無論、これは運が良かったケースである)、今では先進国のほぼ全てがこのシステムを国中に張り巡らせている。全ての道路、新しく建造されたすべての建物にヒューマンストレージの送受信装置が設置された。今や人類は情報そのものとなったのだった。